歌舞伎座浮世絵散歩

バックナンバー
2021.12掲載

第一回「読み解き浮世絵コード」

歌川広重さんの出世作、永谷園のお茶漬のりのおまけでも有名な東海道五十三次シリーズ、その最初の日本橋 朝の景です。
現在ならば橋の向こう左側の火の見櫓の辺りに日本橋三越本店があり、また正面の屋根の櫓の左手辺りに、コレド室町の高層ビルが建っている事になります。
お江戸の五街道の起点、今は首都高速の高架下の日本橋の200年ほど昔の風景です。

その橋の上には参勤交代の大名行列の先頭を行く奴さんたちが、日本橋室町側・JR神田駅方面から、南・銀座方面に向かって眠そうなお顔で渡って来る、日の出前のシーンです。
当時、西国のお大名が旅立つのは、旧暦の3月か4月頃という決まりがありました。また歌に云う「♪お江戸日本橋七つ立ち♪」この「七つ」は、だいたい朝の四時、まだ薄暗い日の出前のパレードのスタートです。そしてこの手前の庶民の方々、ご職業は魚屋さん(お一人だけやっちゃ場*からの八百屋さんも交じっていますが)、向こう河岸の右手にあった歌舞伎のよき理解者・スポンサーでもあった魚市場、そこで仕入れた新鮮な魚を天秤棒で担いで、「おっとと!!今日の行列はぁ長げいよ」とばかりに橋を渡ってきました。江戸府内では、土下座をすることはなく避けるだけで良かったと言います。その頭の上の桶の中には初鰹、さらに鯛、また天秤棒の下の桶には、四角の「まな板」が見えます。魚市場で仕入れた新鮮な魚を長屋の井戸端まで運んで来てくれて、さらに持参したまな板と包丁で、三枚におろして料理の下拵えまでしてくれる、まったく便利な魚屋さん、更にお客様のお皿に盛りつけて、ゴミの出にくい持続可能なエコな江戸の町でもありました。
*やっちゃ場とは、青物市場の事。

【写真】
上:東海道五十三次 日本橋 朝の景
二段目左:参勤交代の奴さん
二段目右:手前の棒振り(ぼてふり・魚屋さん)さんたち
三段目左:頭の桶の中味(かつおと鯛)
三段目右:魚屋さんの桶の中のまな板(手前の桶)
四段目左:八百屋の籠の中(大根、ゴボウ、青菜)
四段目右:火の見櫓

2022.01掲載

第二回 読み解き浮世絵コード
~まりこ名物・とろろ汁~

広重さんの東海道五十三次の中で「最大の謎」といわれている作品です。

この鞠子宿は、品川宿から数えて20番目(「丸子」とも書く)の東海道53宿の中で特に小さな宿場だったと言われ、現在の静岡県静岡市駿河区丸子あたりの宿場です。

1800年頃から、江戸の一般庶民も神社仏閣を巡ると言う事にして、観光旅行を始めました。そのきっかけのひとつが、お江戸の旅行作家、十返舎一九さんの『東海道中膝栗毛』、大人気となり、よく読まれました。主人公は50歳の弥次郎兵衛さんと30歳の喜多八さん、「お弥次さん喜多さん」お二人の珍道中、日本橋から旅立って、お伊勢さんへ、さらに京都・大坂、金比羅山へとの旅行記です。ちなみにこの「膝栗毛」とは、自分の膝を栗色の馬になぞらえて、自分の足で歩き通した旅と言う事です。 そのお二人と思しき旅人が、鞠子の茶屋で、咲きはじめた梅の脇の茶店で赤ちゃんをおぶっておかみさんの接客で、名物の「とろろ汁やお酒など」を縁台のシーンとして描かれています。
その立て看板にも「名ぶつとろろ汁」、そして店の障子には「御茶漬」「酒さかな」のメニューも読み取れます。

この「東海道五十三次」は、大ヒットした旅行記『東海道中膝栗毛』の「ヴィジュアル版」、浮世絵の版元・保永堂さんの日本橋から京都までを55枚でつづった東海道の「カラー・旅行ガイドブック」だったのかも知れません。

そしてこの鞠子辺りは山の芋(自然薯)名産地、だし味噌汁で溶いたとろろ汁を麦飯にかけて食べるのが地元流、旅人は、そのとろろ汁で精をつけて隣の「宇津の谷峠」に備えたのでしょうか。
現在でも14代続く「丁子屋さん」が、その美味を伝えておいでです。

そしてシリーズ最大の謎とは、この「くわえキセル」おじさんの持っている「棹」です。杖や竹刀では長すぎる、先が細くないので釣竿でもなく、物干しでは短く、この棒の正体が「謎」でした。

このおじさん、茶店のおかみさんに、採りたての山の芋を、たった今良い値で買ってもらって、自宅への帰るところを描いているのです。
「自然薯」の商品価値は、傷も折れもなく真っすぐな品が「優良品の上物」と言う訳で、おじさん、後生大事に折れないように、この棒を添え木にして、筵(こも)で包んで大事に運んできて、お店に納品を無時終えて、その帰り道の場面です。
お店の外には「鋤とむしろ」、そして縁台の上に残された煙草盆と茶碗。
自然薯を売りにきたおじさん、今までここに座ってお茶をふるまわれ、たばこ一服と休んでいたのでしょうか、更にいい値で買ってもらって、腰の巾着もふくらんでいるようです、「今夜の酒もうめえら♪」。



2022.02掲載

第三回 読み解き浮世絵コード
~一泊目 保土ヶ谷宿~

現在の神奈川県横浜市保土ヶ谷区あたりの200年ほど前を描いた浮世絵です。
このタイトル「保土ヶ谷」の左となりの朱印の「新町橋」、町の字をよく見ると不思議、「田」と「丁」を縦に並べた「町」と描かれて、江戸の方々も楽しんで重ねたもので「新町橋」です(宿場の入り口、帷子川に架かる帷子橋とも呼ばれていた)。

そしてこの橋、当時歩いて旅をした江戸っ子の皆さんにとっては、とっても魅力的な素敵な橋、とってもうれしい新町橋です。この保土ヶ谷の宿は、江戸を発って初日に泊まる宿場町、とっても人気の宿場でした。

お江戸・日本橋を朝早く旅立って、東海道を南に向かって歩き出した江戸の旅人さん、先ずは、不慣れな旅支度の手甲・脚絆にわらじ履き、旅立って、二里・8㌔ほど歩いた最初の宿場は海岸沿いの「品川宿」です。東海道をさらに進み蒲田を越えて、大きな多摩川を渡し船で渡って二里半・10㌔ほどで「川崎宿」。さらに海沿いの道を歩いて、あるいてまた二里半・10㌔ほどでようやく「神奈川宿」、時速4キロの休みなしでも7時間の旅歩きです。その通算7里・28㌔を超えて疲れも出始め、陽も傾きかけた頃、旅の初日、最後の踏ん張り更に一里ほど歩いた日本橋から通算32㌔くらいで、ようやく見えてきたのがこの風景、最初の宿泊の地・保土ヶ谷宿場。この橋を渡ればお宿、初日のゴールも近い保土ヶ谷の入り口、新町橋です。

東海道の保土ヶ谷宿の次は戸塚宿、そこまではこの保土ヶ谷宿を出て更に約二里・8㌔、旅慣れた人とか、屈強な人とか、急ぎ旅の人は、足を延ばしたでしょうが、歩き始めの、まだ旅になれていない江戸からの旅人には無理、この橋を渡って一泊目の宿となりました。また参勤交代などで、お大名も泊まる宿、本陣もある立派な宿場町の目印、それがこの新町橋でした。

そしてこの浮世絵、その帷子川にかかる橋の上には、深い笠を少し傾げた虚無僧さん、その後ろから立派な駕籠とその脇を固める供侍、さらに後ろに荷物持ちさん、そして少し長めの息杖(いきづえ)で調子をとる駕籠かき二人の五人連れが描かれています。

また、保土ヶ谷宿場からこちらに向かって揃いの菅笠集団八人に、荷を背に担いだ商い人ひとり。その橋のたもとには名物なのか「二八蕎麦屋」の可愛い店員さんがお二人描かれ、合計16人が描かれています(さらに一人駕籠の中にも居るはずですが)。
更に広重さん細かく描いてあとお二人、宿場の外、左の細い畦道に、鍬を持った農夫の親子に(少し背が丸く赤ちゃんをおぶっていらっしゃるのかも)も描かれ、夕暮れ時、たそがれ時をしっかり表現されています。

さて江戸時代、1800年頃になると旅人も、参勤交代の武家や、出張の町人ばかりでなく、庶民も旅行を楽しむようになりました。ただその表向きの目的は、社寺参詣に湯治とか、お伊勢さんや金毘羅詣の大旅行から、江戸の近郊の二泊か三泊、四泊の箱根、大山詣、江の島、金沢八景などへと、物見遊山の旅を始めていました。そのブームに火をつけたのが、1802年から出版され始めた十返舎一九さんのベストセラー「東海道中膝栗毛」とも言われています。日本橋近くに住まう二人のお調子者が、お伊勢さんから、京都、足を延ばして金毘羅さん、さらに関西と、旅のコメディー、滑稽本としても大当たりしました。

広重さんその東海道五十三次の宿場を、日本橋から京都三条大橋までの55枚浮世絵版画シリーズとして描き「東海道中膝栗毛」のビジュアル版的に売り出し、こちらも大ヒットの人気シリーズとなりました。その中でも特に有名なこの保永堂版に始まり、行書版、隷書版など様々に20年以上にわたり11種類の東海道シリーズを出されました。
またこの保永堂シリーズが発行されたのは1833年頃、その三年後1836年に坂本龍馬さんが土佐(高知県)で生まれ、いよいよお江戸も騒がしくなり始めるころの広重さんの浮世絵シリーズです。



2022.03掲載

『東海道五十三次 池鯉鮒 首夏馬市』 歌川広重
第四回 読み解き浮世絵コード
~初夏の馬市 知立~

タイトルの「池鯉鮒」、「いけ・こい・ふな」、これで「ちりゅう」と読み、現在の愛知県知立市あたり、さらに「首夏馬市」、「しゅか・うまいち」、「初夏、夏の初の馬の市」を描いた浮世絵です。
そしてこの不思議なお名前「池鯉鮒」は、市内の由緒正しき知立神社の池に「明神さまの使い」の鯉と鮒が多く住んでいたからこの名が付き、更に今の「知立」となったと言われています。日本橋を発って東海道もだいぶ進み、39番目の宿場、約330キロ、標準スピードで10日目あたり、愛知県に入り岡崎、安城を過ぎ、刈谷の手前辺りです。

さて可愛いお馬さん達が草原につながれて描かれています。ここに描かれている馬たちは、現在JRA日本タービーや宝塚記念でおなじみのスマートなサラブレットではなく、日本在来種の馬たち、木曽馬(きそうま)や与那国馬(よなぐにうま)などのお仲間の馬達です。少し小型ですが、その源がモンゴルとも言われ、忍耐強く荷運びはもちろん、お侍たちを乗せて戦っていた馬たちです。
この浮世絵が描かれたお江戸の1833年頃の広重さんの時代からさらに遡る事 約250年昔の戦国時代、信長さんや若かりし家康さん、武田騎馬武者達が、この辺りを走り回る古戦場だった事を広重さん思いおこしてか、東海道のこの地を「池鯉鮒の夏の馬市」として描いたのでしょうか。

そしてこの浮世絵、真ん中の大きな松ノ木が描かれています、この松にはお名前があり「談合松」。ここの馬市、この松木の下で商取引を行うのが決まり。只今交渉の真っただ中、談合中、大勢の売り手と買い手が売る馬、買う馬、少しでも高く、少しでも良い馬をと、売り手と買い手で大談合中です。

その談合松の下の大勢の人たちを目当に、松の木の左手前から、従者と共に荷を担いで松の木の方へ進んで行く人が居ます。先の人が荷を肩に担ぎ、後ろから両天秤を担いで、これはお弁当屋さん、激しく競り合う談合の方々も振り向いたりして、頃も良し、「そろそろお腹空きませんか、お弁当をお使いになりませんか」と声をかけているのか、こちらも談合開始です。

また、この「知立」の地は、浮世絵でもよく出てくる有名人、お江戸の方々にも人気の、あの稀代のプレーボーイ、古文の教科書にも出てくる「伊勢物語」その主人公とも言われる在原業平さんが、東国に赴任するときに、この地で見た「かきつばた」の花の名前五文字を句頭に入れて「折り句」を詠んだ、珍しく殊勝な美しい歌でも有名な土地でもあります。

(か)らごろも (き)つつなれにし  (つ)ましあれば (は)るばるきぬる (た)びをしぞおもう
(着慣れ馴染んだきものの様に、長年連れ添った妻を残してはるばる旅して来たが、この旅を今更ながら侘しく想うものよ)

そして、広重さんのこの東海道五十三次55枚シリーズには、55頭の馬の姿が描かれています。
この浮世絵シリーズは、評判が良くてどんどん売れて、重版となり、新しい版木をおこす後摺りも出るくらいの大評判。広重さんも、だんだん気分良く、製作を進めて行き、ここは日本橋から39番目、午年のこの年、お馬さんを、この「池鯉鮒」で何と「25頭」も描かれました。そして、ついに55枚が完成した東海道五十三次のこのシリーズ、当時の江戸っ子達も、なかなか気がつかない「広重さんの深い洒落心」がありました。
上がり京都の最後の一枚、京師三條大橋の橋の真ん中に、馬子に引かれたりっぱな「荷馬」を一頭、書き加え55枚シリーズ東海道に「55頭」の馬を描ききりました。当時、55枚を全部それえて、天眼鏡などでじっくり見る機会もなく、だれもが全く気付かぬ遊び心、洒落心。
ご本人広重さんもまさか200年近く経って「55枚に55頭」見つかるとは予想だに出来ぬ、すごい洒落、遊び心でございます。 ちなみに、広重さんのこの東海道五十三次シリーズに登場する動物達は、「牛4頭」「犬3匹」「猫1匹」に「鶴は2匹」です。

2022.04掲載

『東海道五十三次 由井 薩埵峠(さったとうげ)』 歌川広重
第五回 読み解き浮世絵コード
~美しき東海道の難所~

正面のまっ白な富士山と静かな駿河の海、東海道の富士と海と峠道、絶景にして穏やかな風景です。
しかし江戸時代の初期、この美しい「由井の海岸」は、東海道の中でもとても厳しいところでした。この左上の薩埵峠(さったとうげ) から絶壁の岩山が海へせり出し、この右下の旅人も行き交う海岸線の街道には、太平洋の荒波が時に打ち寄せる危険な場所、東海道の中でも一、二を争う難所でした。

しかしこの難所のルート回避を、幕府は「朝鮮通信使」のご一行様を迎えるためにとして、何とか山の上に整備し新しいルート、峠道を開いたと言われています。
さらに、その波に洗われることで危険だった海岸線は、この浮世絵が描かれたおよそ20年後、幕末の頃の大地震で、海岸線が隆起し少し広めになり、現在ではその少し広がったその海岸線にJR東海道線、国道一号線、東名高速道路が並び「日本物流の大動脈」となっていて、静岡市による映像中継「薩埵峠富士山ライブカメラ」やテレビ局の定点カメラが設置され、この浮世絵と同じアングルで24時間ライブ映像をチェックする事が出来ます。

ここは現在の静岡県静岡市清水区あたり、この位置から眺める富士山の右の肩には、1704年(宝永四)の宝永大噴火で出来た大きな火口、「富士山のえくぼ」が見えていたはずなのですが、広重さんはあえて美しい、きれいな富士のスロープ、稜線を描いてくれています。

そしここの難しいお名前の「薩埵峠(さったとうげ)」とは、その昔、漁師の網にかかり、この海から引き上げられた有難い「さった地蔵様」をこのお山の頂に祀ったことからのお名前とか。そして、このせり出した辺りからは、富士山と駿河湾が一望できる人気No.1のビューポイント、この浮世絵に登場する旅人たちも、おっかなびっくり、この絶景を楽しんでいます。 さらに旅人達の足元には、垂直な厳しい岩肌をモザイクのように重ねて描き、また嵐とでも戦っているかのように折れ曲がった松の枝などと、まるで動と静を、点描と直線で描いた、後の世の印象派のカットをちりばめたような浮世絵です。

この風光明媚な穏やかな駿河湾、日本ではここでしか獲れないサクラエビの漁なのでしょうか、漁師の皆さんが漕ぎ出した影のような小船が見え、更に沖には大きな白い帆が四つ、難所の遠州灘越え、上方とお江戸を結ぶ千石船もゆったりと描かれています。
この由井の絶景カットは、日本一深い駿河湾と日本一高い富士山、その海底から頂上までの高低差なんと6600メートル以上といわれ、その直接見ることは出来ない日本一の雄大さを一枚の浮世絵版画に納めるとは、さすが広重さんが見ている時空間、スケールの大きさが違います。