歌舞伎座浮世絵散歩

バックナンバー
2021.12掲載

第一回「読み解き浮世絵コード」

歌川広重さんの出世作、永谷園のお茶漬のりのおまけでも有名な東海道五十三次シリーズ、その最初の日本橋 朝の景です。
現在ならば橋の向こう左側の火の見櫓の辺りに日本橋三越本店があり、また正面の屋根の櫓の左手辺りに、コレド室町の高層ビルが建っている事になります。
お江戸の五街道の起点、今は首都高速の高架下の日本橋の200年ほど昔の風景です。

その橋の上には参勤交代の大名行列の先頭を行く奴さんたちが、日本橋室町側・JR神田駅方面から、南・銀座方面に向かって眠そうなお顔で渡って来る、日の出前のシーンです。
当時、西国のお大名が旅立つのは、旧暦の3月か4月頃という決まりがありました。また歌に云う「♪お江戸日本橋七つ立ち♪」この「七つ」は、だいたい朝の四時、まだ薄暗い日の出前のパレードのスタートです。そしてこの手前の庶民の方々、ご職業は魚屋さん(お一人だけやっちゃ場*からの八百屋さんも交じっていますが)、向こう河岸の右手にあった歌舞伎のよき理解者・スポンサーでもあった魚市場、そこで仕入れた新鮮な魚を天秤棒で担いで、「おっとと!!今日の行列はぁ長げいよ」とばかりに橋を渡ってきました。江戸府内では、土下座をすることはなく避けるだけで良かったと言います。その頭の上の桶の中には初鰹、さらに鯛、また天秤棒の下の桶には、四角の「まな板」が見えます。魚市場で仕入れた新鮮な魚を長屋の井戸端まで運んで来てくれて、さらに持参したまな板と包丁で、三枚におろして料理の下拵えまでしてくれる、まったく便利な魚屋さん、更にお客様のお皿に盛りつけて、ゴミの出にくい持続可能なエコな江戸の町でもありました。
*やっちゃ場とは、青物市場の事。

【写真】
上:東海道五十三次 日本橋 朝の景
二段目左:参勤交代の奴さん
二段目右:手前の棒振り(ぼてふり・魚屋さん)さんたち
三段目左:頭の桶の中味(かつおと鯛)
三段目右:魚屋さんの桶の中のまな板(手前の桶)
四段目左:八百屋の籠の中(大根、ゴボウ、青菜)
四段目右:火の見櫓

2022.01掲載

第二回 読み解き浮世絵コード
~まりこ名物・とろろ汁~

広重さんの東海道五十三次の中で「最大の謎」といわれている作品です。

この鞠子宿は、品川宿から数えて20番目(「丸子」とも書く)の東海道53宿の中で特に小さな宿場だったと言われ、現在の静岡県静岡市駿河区丸子あたりの宿場です。

1800年頃から、江戸の一般庶民も神社仏閣を巡ると言う事にして、観光旅行を始めました。そのきっかけのひとつが、お江戸の旅行作家、十返舎一九さんの『東海道中膝栗毛』、大人気となり、よく読まれました。主人公は50歳の弥次郎兵衛さんと30歳の喜多八さん、「お弥次さん喜多さん」お二人の珍道中、日本橋から旅立って、お伊勢さんへ、さらに京都・大坂、金比羅山へとの旅行記です。ちなみにこの「膝栗毛」とは、自分の膝を栗色の馬になぞらえて、自分の足で歩き通した旅と言う事です。 そのお二人と思しき旅人が、鞠子の茶屋で、咲きはじめた梅の脇の茶店で赤ちゃんをおぶっておかみさんの接客で、名物の「とろろ汁やお酒など」を縁台のシーンとして描かれています。
その立て看板にも「名ぶつとろろ汁」、そして店の障子には「御茶漬」「酒さかな」のメニューも読み取れます。

この「東海道五十三次」は、大ヒットした旅行記『東海道中膝栗毛』の「ヴィジュアル版」、浮世絵の版元・保永堂さんの日本橋から京都までを55枚でつづった東海道の「カラー・旅行ガイドブック」だったのかも知れません。

そしてこの鞠子辺りは山の芋(自然薯)名産地、だし味噌汁で溶いたとろろ汁を麦飯にかけて食べるのが地元流、旅人は、そのとろろ汁で精をつけて隣の「宇津の谷峠」に備えたのでしょうか。
現在でも14代続く「丁子屋さん」が、その美味を伝えておいでです。

そしてシリーズ最大の謎とは、この「くわえキセル」おじさんの持っている「棹」です。杖や竹刀では長すぎる、先が細くないので釣竿でもなく、物干しでは短く、この棒の正体が「謎」でした。

このおじさん、茶店のおかみさんに、採りたての山の芋を、たった今良い値で買ってもらって、自宅への帰るところを描いているのです。
「自然薯」の商品価値は、傷も折れもなく真っすぐな品が「優良品の上物」と言う訳で、おじさん、後生大事に折れないように、この棒を添え木にして、筵(こも)で包んで大事に運んできて、お店に納品を無時終えて、その帰り道の場面です。
お店の外には「鋤とむしろ」、そして縁台の上に残された煙草盆と茶碗。
自然薯を売りにきたおじさん、今までここに座ってお茶をふるまわれ、たばこ一服と休んでいたのでしょうか、更にいい値で買ってもらって、腰の巾着もふくらんでいるようです、「今夜の酒もうめえら♪」。



2022.02掲載

第三回 読み解き浮世絵コード
~一泊目 保土ヶ谷宿~

現在の神奈川県横浜市保土ヶ谷区あたりの200年ほど前を描いた浮世絵です。
このタイトル「保土ヶ谷」の左となりの朱印の「新町橋」、町の字をよく見ると不思議、「田」と「丁」を縦に並べた「町」と描かれて、江戸の方々も楽しんで重ねたもので「新町橋」です(宿場の入り口、帷子川に架かる帷子橋とも呼ばれていた)。

そしてこの橋、当時歩いて旅をした江戸っ子の皆さんにとっては、とっても魅力的な素敵な橋、とってもうれしい新町橋です。この保土ヶ谷の宿は、江戸を発って初日に泊まる宿場町、とっても人気の宿場でした。

お江戸・日本橋を朝早く旅立って、東海道を南に向かって歩き出した江戸の旅人さん、先ずは、不慣れな旅支度の手甲・脚絆にわらじ履き、旅立って、二里・8㌔ほど歩いた最初の宿場は海岸沿いの「品川宿」です。東海道をさらに進み蒲田を越えて、大きな多摩川を渡し船で渡って二里半・10㌔ほどで「川崎宿」。さらに海沿いの道を歩いて、あるいてまた二里半・10㌔ほどでようやく「神奈川宿」、時速4キロの休みなしでも7時間の旅歩きです。その通算7里・28㌔を超えて疲れも出始め、陽も傾きかけた頃、旅の初日、最後の踏ん張り更に一里ほど歩いた日本橋から通算32㌔くらいで、ようやく見えてきたのがこの風景、最初の宿泊の地・保土ヶ谷宿場。この橋を渡ればお宿、初日のゴールも近い保土ヶ谷の入り口、新町橋です。

東海道の保土ヶ谷宿の次は戸塚宿、そこまではこの保土ヶ谷宿を出て更に約二里・8㌔、旅慣れた人とか、屈強な人とか、急ぎ旅の人は、足を延ばしたでしょうが、歩き始めの、まだ旅になれていない江戸からの旅人には無理、この橋を渡って一泊目の宿となりました。また参勤交代などで、お大名も泊まる宿、本陣もある立派な宿場町の目印、それがこの新町橋でした。

そしてこの浮世絵、その帷子川にかかる橋の上には、深い笠を少し傾げた虚無僧さん、その後ろから立派な駕籠とその脇を固める供侍、さらに後ろに荷物持ちさん、そして少し長めの息杖(いきづえ)で調子をとる駕籠かき二人の五人連れが描かれています。

また、保土ヶ谷宿場からこちらに向かって揃いの菅笠集団八人に、荷を背に担いだ商い人ひとり。その橋のたもとには名物なのか「二八蕎麦屋」の可愛い店員さんがお二人描かれ、合計16人が描かれています(さらに一人駕籠の中にも居るはずですが)。
更に広重さん細かく描いてあとお二人、宿場の外、左の細い畦道に、鍬を持った農夫の親子に(少し背が丸く赤ちゃんをおぶっていらっしゃるのかも)も描かれ、夕暮れ時、たそがれ時をしっかり表現されています。

さて江戸時代、1800年頃になると旅人も、参勤交代の武家や、出張の町人ばかりでなく、庶民も旅行を楽しむようになりました。ただその表向きの目的は、社寺参詣に湯治とか、お伊勢さんや金毘羅詣の大旅行から、江戸の近郊の二泊か三泊、四泊の箱根、大山詣、江の島、金沢八景などへと、物見遊山の旅を始めていました。そのブームに火をつけたのが、1802年から出版され始めた十返舎一九さんのベストセラー「東海道中膝栗毛」とも言われています。日本橋近くに住まう二人のお調子者が、お伊勢さんから、京都、足を延ばして金毘羅さん、さらに関西と、旅のコメディー、滑稽本としても大当たりしました。

広重さんその東海道五十三次の宿場を、日本橋から京都三条大橋までの55枚浮世絵版画シリーズとして描き「東海道中膝栗毛」のビジュアル版的に売り出し、こちらも大ヒットの人気シリーズとなりました。その中でも特に有名なこの保永堂版に始まり、行書版、隷書版など様々に20年以上にわたり11種類の東海道シリーズを出されました。
またこの保永堂シリーズが発行されたのは1833年頃、その三年後1836年に坂本龍馬さんが土佐(高知県)で生まれ、いよいよお江戸も騒がしくなり始めるころの広重さんの浮世絵シリーズです。



2022.03掲載

『東海道五十三次 池鯉鮒 首夏馬市』 歌川広重
第四回 読み解き浮世絵コード
~初夏の馬市 知立~

タイトルの「池鯉鮒」、「いけ・こい・ふな」、これで「ちりゅう」と読み、現在の愛知県知立市あたり、さらに「首夏馬市」、「しゅか・うまいち」、「初夏、夏の初の馬の市」を描いた浮世絵です。
そしてこの不思議なお名前「池鯉鮒」は、市内の由緒正しき知立神社の池に「明神さまの使い」の鯉と鮒が多く住んでいたからこの名が付き、更に今の「知立」となったと言われています。日本橋を発って東海道もだいぶ進み、39番目の宿場、約330キロ、標準スピードで10日目あたり、愛知県に入り岡崎、安城を過ぎ、刈谷の手前辺りです。

さて可愛いお馬さん達が草原につながれて描かれています。ここに描かれている馬たちは、現在JRA日本タービーや宝塚記念でおなじみのスマートなサラブレットではなく、日本在来種の馬たち、木曽馬(きそうま)や与那国馬(よなぐにうま)などのお仲間の馬達です。少し小型ですが、その源がモンゴルとも言われ、忍耐強く荷運びはもちろん、お侍たちを乗せて戦っていた馬たちです。
この浮世絵が描かれたお江戸の1833年頃の広重さんの時代からさらに遡る事 約250年昔の戦国時代、信長さんや若かりし家康さん、武田騎馬武者達が、この辺りを走り回る古戦場だった事を広重さん思いおこしてか、東海道のこの地を「池鯉鮒の夏の馬市」として描いたのでしょうか。

そしてこの浮世絵、真ん中の大きな松ノ木が描かれています、この松にはお名前があり「談合松」。ここの馬市、この松木の下で商取引を行うのが決まり。只今交渉の真っただ中、談合中、大勢の売り手と買い手が売る馬、買う馬、少しでも高く、少しでも良い馬をと、売り手と買い手で大談合中です。

その談合松の下の大勢の人たちを目当に、松の木の左手前から、従者と共に荷を担いで松の木の方へ進んで行く人が居ます。先の人が荷を肩に担ぎ、後ろから両天秤を担いで、これはお弁当屋さん、激しく競り合う談合の方々も振り向いたりして、頃も良し、「そろそろお腹空きませんか、お弁当をお使いになりませんか」と声をかけているのか、こちらも談合開始です。

また、この「知立」の地は、浮世絵でもよく出てくる有名人、お江戸の方々にも人気の、あの稀代のプレーボーイ、古文の教科書にも出てくる「伊勢物語」その主人公とも言われる在原業平さんが、東国に赴任するときに、この地で見た「かきつばた」の花の名前五文字を句頭に入れて「折り句」を詠んだ、珍しく殊勝な美しい歌でも有名な土地でもあります。

(か)らごろも (き)つつなれにし  (つ)ましあれば (は)るばるきぬる (た)びをしぞおもう
(着慣れ馴染んだきものの様に、長年連れ添った妻を残してはるばる旅して来たが、この旅を今更ながら侘しく想うものよ)

そして、広重さんのこの東海道五十三次55枚シリーズには、55頭の馬の姿が描かれています。
この浮世絵シリーズは、評判が良くてどんどん売れて、重版となり、新しい版木をおこす後摺りも出るくらいの大評判。広重さんも、だんだん気分良く、製作を進めて行き、ここは日本橋から39番目、午年のこの年、お馬さんを、この「池鯉鮒」で何と「25頭」も描かれました。そして、ついに55枚が完成した東海道五十三次のこのシリーズ、当時の江戸っ子達も、なかなか気がつかない「広重さんの深い洒落心」がありました。
上がり京都の最後の一枚、京師三條大橋の橋の真ん中に、馬子に引かれたりっぱな「荷馬」を一頭、書き加え55枚シリーズ東海道に「55頭」の馬を描ききりました。当時、55枚を全部それえて、天眼鏡などでじっくり見る機会もなく、だれもが全く気付かぬ遊び心、洒落心。
ご本人広重さんもまさか200年近く経って「55枚に55頭」見つかるとは予想だに出来ぬ、すごい洒落、遊び心でございます。 ちなみに、広重さんのこの東海道五十三次シリーズに登場する動物達は、「牛4頭」「犬3匹」「猫1匹」に「鶴は2匹」です。

2022.04掲載

『東海道五十三次 由井 薩埵峠(さったとうげ)』 歌川広重
第五回 読み解き浮世絵コード
~美しき東海道の難所~

正面のまっ白な富士山と静かな駿河の海、東海道の富士と海と峠道、絶景にして穏やかな風景です。
しかし江戸時代の初期、この美しい「由井の海岸」は、東海道の中でもとても厳しいところでした。この左上の薩埵峠(さったとうげ) から絶壁の岩山が海へせり出し、この右下の旅人も行き交う海岸線の街道には、太平洋の荒波が時に打ち寄せる危険な場所、東海道の中でも一、二を争う難所でした。

しかしこの難所のルート回避を、幕府は「朝鮮通信使」のご一行様を迎えるためにとして、何とか山の上に整備し新しいルート、峠道を開いたと言われています。
さらに、その波に洗われることで危険だった海岸線は、この浮世絵が描かれたおよそ20年後、幕末の頃の大地震で、海岸線が隆起し少し広めになり、現在ではその少し広がったその海岸線にJR東海道線、国道一号線、東名高速道路が並び「日本物流の大動脈」となっていて、静岡市による映像中継「薩埵峠富士山ライブカメラ」やテレビ局の定点カメラが設置され、この浮世絵と同じアングルで24時間ライブ映像をチェックする事が出来ます。

ここは現在の静岡県静岡市清水区あたり、この位置から眺める富士山の右の肩には、1704年(宝永四)の宝永大噴火で出来た大きな火口、「富士山のえくぼ」が見えていたはずなのですが、広重さんはあえて美しい、きれいな富士のスロープ、稜線を描いてくれています。

そしここの難しいお名前の「薩埵峠(さったとうげ)」とは、その昔、漁師の網にかかり、この海から引き上げられた有難い「さった地蔵様」をこのお山の頂に祀ったことからのお名前とか。そして、このせり出した辺りからは、富士山と駿河湾が一望できる人気No.1のビューポイント、この浮世絵に登場する旅人たちも、おっかなびっくり、この絶景を楽しんでいます。 さらに旅人達の足元には、垂直な厳しい岩肌をモザイクのように重ねて描き、また嵐とでも戦っているかのように折れ曲がった松の枝などと、まるで動と静を、点描と直線で描いた、後の世の印象派のカットをちりばめたような浮世絵です。

この風光明媚な穏やかな駿河湾、日本ではここでしか獲れないサクラエビの漁なのでしょうか、漁師の皆さんが漕ぎ出した影のような小船が見え、更に沖には大きな白い帆が四つ、難所の遠州灘越え、上方とお江戸を結ぶ千石船もゆったりと描かれています。
この由井の絶景カットは、日本一深い駿河湾と日本一高い富士山、その海底から頂上までの高低差なんと6600メートル以上といわれ、その直接見ることは出来ない日本一の雄大さを一枚の浮世絵版画に納めるとは、さすが広重さんが見ている時空間、スケールの大きさが違います。      

2022.05掲載

『東海道五十三次 関 本陣早立』 歌川広重
第六回 読み解き浮世絵コード
~お江戸のコマーシャル~

今から189年前、37歳の広重さんと彼のスタッフ、お江戸の職人さんたちが保永堂という版元から出した『東海道五十三次シリーズ』、東海道の宿場53箇所と、最初の「日本橋」そして終点の「京都三條大橋」の2点を足した55作品の風景浮世絵です。大ヒットした十辺舎一句さんの滑稽本『東海道中膝栗毛』のグラビア版的存在でした。

そしてここは「関宿の本陣前」、東海道五十三次もかなり進んだ、いまの三重県鈴鹿郡関町(現同亀山市)あたりです。日本橋から数えて47番目、鈴鹿峠の手前の宿場。伊勢と近江の境にあり、東海道の本道とお伊勢さんへの伊勢別街道へ分かれる辺りです。

「早立」です、朝早いんです、日の出前、まだ薄暗い頃です。そして「本陣」、大名さんもお泊りになる、りっぱなお宿、そのご一行さまが、そろそろ出発の刻限を描いています。「さあ、出発ですよ~。」といいながらも先ずは朝の一服、キセルを加えて、「さぁ行くべいか、よっこらしょ、今日はきついぞ、峠越えだ~。」。
よく見ると、この奴さんのお荷物、三角形の竹の籠、この振り分けで担ぐお荷物、中身は道中での必需品、草鞋(わらじ)です。この旅で、ご一行の皆さまが履き替える草鞋。わらじは50キロメートルほど歩くと、すりへって道中の途中でもはき替えたそうです。

そして奥に美しく張り廻らされた幔幕(まんまく)、そこにりっぱな家紋が入っています。この紋どころでどちらの大名様か一目瞭然のはずなのですが、このご紋、架空の創作デザインの御紋、現実にはありません。実は広重さんのお父上の実家の「田中」をデザイン化して、その周りを御所車風の輪で囲む「広重デザイン」、お大名を特定する事をはばかった架空の家紋です。

さらに、この箱提灯の菱形の模様はヒロシゲさんのお名前の「ヒ」と「ロ」を合わせたマーク、広重さんの浮世絵にはあちらこちらと顔を出す、遊び心の「ヒロ文様」です。

またこの座敷にあげられたお殿さまの大事なお駕籠の上、幔幕に隠れて五枚の木札が下がっています。右端の「○○守泊」は大名さんのお名前が隠れているのでしょうか。
さてさて、真ん中の木札には「(お)白いの薬 仙女香(ぜんじょこう)」、白粉?、
左から二枚目は「志らが薬 美玄香(びげんこう)」、ビゲンの白髪染め薬?。
これはお江戸のりっぱな広告、コマーシャルです。広重さんのこの東海道シリーズ浮世絵は、凄く売れました、まぁ今で言うなら「視聴率のとっても良い番組」みたいなものです。当然よい広告主、スポンサーもつきました。
一番左の木札の下には、そのスポンサーさんお江戸の「京ばし南でんま丁三丁目坂本氏」と読み取れます。現在の東京都中央区京橋あたりにあった、ご商売上手なお化粧品屋さんの坂本さん、そのクレジットです。    

そしてこの東海道シリーズ最大の謎のひとつ「竹の結び目」の謎です。
この木札の土台の足の結び目を、よ~く見ると「無理」、この世の物理空間では起こりえない、どうぞゆっくり確認してみて下さい。

でも、どうしてこんなことが起きたのか。
絵を描いた広重さん、彫師さん達、摺り師さん達、そして版元さん、何人もの人のチェックが入ったはず、こんな間違いがあればすぐに修正されるはず?。

広重さんとスタッフ一同、この浮世絵を買ってくれたお客さんが見つけてくれる事を、秘かに楽しみにしていたのでしょうか。今から189年前のお江戸の職人さん達の謎かけ、お遊び、いたずら、楽しみ、広重さん達の「お江戸のしゃれ」でござります。   

2022.06掲載

『東海道五十三次 原 朝之富士』 歌川広重
第七回 読み解き浮世絵コード
~枠を超えた富士山~

白い富士山が朝の陽光に、ほんのりピンク色に染まっています。広重さんの描いた東海道五十三次シリーズ55点の中で唯一、富士山全体が描いてある一枚、更には絵の枠を超えてはみ出して描いた「ビックな富士山」の浮世絵です。

この「原」は、現在の静岡県沼津市原あたり、東海道を西に向かって旅を始めて、街道一険しい箱根をようやく越えて伊豆の国・三島宿、そして海岸沿いに駿河の国・沼津宿、そこからゆったりと進んで、日本橋から13番目の原の宿場です。宿場のお名前は、この湿地・浮島ケ原の「原」です。この辺り、南側はすぐに駿河湾の海、右手は裾野から見上げる雄大な富士山、東海道随一の富士山ビューポイントエリアです。

江戸でも大人気の富士山のお姿を、広重さんこのシリーズでは、何故かそのほとんどをひっそりと控えめに小さく、林の上に、また山陰にと七点だけ描かれました。先ず川崎宿・六郷の渡舟越しに、そして平塚宿、箱根宿でも小さく、吉原宿では東海道筋では珍しい左側に見える「左富士」として、由井は、さった峠から駿河湾越しに、最後に一番西の浜名湖の舞阪宿と、この「原」以外は、小さく書き添えた感じで描いています。

そしてこの浮世絵「原」で目立っているのは、この旅する女性二人。

素敵な旅姿、キセルを手に笠をひょいと持ち上げて空身の旅、重たい荷物はすべて従者におまかせ、おじさん道中ざしまで差して頑張っています。

またこのお二人を「仮名手本忠臣蔵・八段目・道行旅路の嫁入」の母と娘と見た立て、大星カ弥の許婚、加古川本蔵の娘・小浪さんとその義母・戸無瀬さまが、京都山科へと向かう姿とするとも言われています。それにしても三人分の荷を両掛(りょうがけ)して、おじさん大丈夫ですか。しかしおじさんの衣装の模様も、しっかり広重さんの「ヒ」と「ロ」の文字で作った素敵な「ヒロ文様」、スマートに着てらっしゃいます。

さてこの立派な富士山、日本の火山の中では、10万年ほど前に出来た、若くて元気な火山です。江戸時代、この浮世絵が描かれる120年ほど前の1707年大きな噴火を起こしています。当時二週間ほど噴火が続き、江戸の町にも灰を降らせました。その宝永大噴火の火口も、左側の富士山の美しい稜線の反対側・東の肩に控えめに小さく描かれています。

さらにその手前、ごつごつとした険しい山並みは、長い歳月風雨で削られ侵食された愛鷹山(あしたかやま)です、この頃は足高の峰とも呼ばれ、古くから馬の放牧の地としても有名でした。

また、この浮島ケ原の湿地に、二羽の鶴が描かれています。江戸時代、日本全国に多くの鶴が北国より飛来し、「鶴は千年」の縁起の良い鳥として大切に保護されていました。しかし、その人気から高価な贈答品、食品としても扱われていました。あの江戸の高級料亭「八百善」でもメニューにあったとか。当時のお料理の本「本朝食鑑」にも、「黒鶴・白鶴・真鶴」とあり、よく見かけたマナヅルやナベヅルの事だったのでしょうか。ただ「丹頂鶴」だけは、肉が硬くて鑑賞用のみだったとも言われています。

さて当時お江戸で富士山と言えば、1931年頃、この東海道五十三次より2年ほど前に売り出された、北斎さんの「富嶽三十六景シリーズ」が大人気でした。
この当時37歳の広重さん、風景絵師の大先輩、37歳年上で74歳の北斎さんの描かれた46点の富士山シリーズに遠慮してか、この版元・保永堂から刊行された東海道五十三次では、ほとんど富士山は控えめ、ただこの「原」だけ大胆にビックに、枠からはみ出してピンクに染めておいでです。 

2022.07掲載

『東海道五十三次 蒲原 夜之雪』 歌川広重
第八回 読み解き浮世絵コード
~不思議な雪景色~

葉月八月は、夜之雪、東海道の蒲原の浮世絵でございます。

「東海道五十三次」のなかでも特に人気のある一点、雪景色の逸品、美しい浮世絵版画です。
広重さん、東海道の53の宿場に、出発の日本橋と上がり京都の2点を加え、55枚シリーズとしました。その中の二点に「雪のシーン」を描かれました。一点が現在の三重県、伊賀市と鈴鹿市の間の「亀山・雪晴」、そしてもう一点がこの「蒲原」です。
立派な本陣のある「蒲原宿」は、現在の静岡市清水区蒲原、ミカンのなる温暖な駿河の国です。冬でも暖かでやわらかな陽ざしが続く、雪なんか見事に降らないその「蒲原」の雪景色です。

広重さん37歳の出世作「東海道五十三次」。作品は、いっぺんに55枚全部揃えて売り出すわけではなく、一作、一作描いて、彫って、摺って、売り出します。東海道も日本橋を発って保土ヶ谷、箱根、原と人気が出て大ヒットよく売れて、版元もだんだん乗ってくるあたりです。(もし人気が出ないと、作品が売れないと途中ストップの可能性もありました。)
駿河の国に入って、ビックな富士山の原宿、左富士の吉原宿、そして日本橋から16枚目の蒲原宿です。ここは駿河湾に面した静かな宿場、版元竹内さんも広重さんも「ここいらでワンポイント、ちょいと考えた」、その浮世絵がこの「蒲原」です。

「雪」とは縁遠い温暖な駿河に白雪でも降らせて、今でも「静岡県に積雪」とならばニュースです。ならばとばかり「蒲原雪景色」、みなが驚く美しい「夜之雪」、創作の一点です。
さらにまるで水墨画、真っ白の雪から、淡い灰色、濃い灰色、黒の線、「ぼかし」も天ぼかしから、下からの地ぼかし、濃淡からピークのつくりまで、凝りに凝った摺師の技も満載です。

そして時刻は「夜」、雪明りの中、足首まで埋まりそうな雪降る坂を行きかう人たちです。

左手のお方、番傘を半分開き、足元は高下駄、さらに杖までついて、これが大変なんです、寒くて滑って、下駄ですよ。ひとつ間違うと「二の字、二の字」の下駄の歯、その下駄の歯の間に雪が詰まって、溜まって雪が伸びて、こけちゃうんです、ドキドキものの小幅な歩き、静岡の雪なら、重い雪、湿った雪は溜まりやすいんです。

右手の「藁蓑(わらみの)」のお方、稲のわらを編んで作った雨具、ここでは素敵な雪衣裳の防寒具、稲作文化の素敵な工芸品、おじさんの手仕事、手作りですか?、おじさん、下ばっかり見ているとこけますよ、もっと背筋伸ばして、前向いた方が滑りませんよ~。

その前を行くおじさんは、スマートですね、笠も合羽も旅慣れて、前をしっかり見据えて慎重に、夜ですね。それにしてもさすがです、左手に隠れているのは、旅の必需品、蛇腹式の「小田原提灯」でしょうか。
また、雪降りを予想していたのか、ポルトガルの宣教師が着ていた事から広まった「capa」、合羽、旅行用にぴったり、軽い紙製の雨具のカッパ、防寒にもなりますね。
素材の紙に「柿渋」塗って、さらに「えごまの油」か「桐油」を何回も塗って乾かして、出来た丈夫な「油紙」、それで作った小さく折りたためる合羽ですね、さすがです。

しかしこの「蒲原・夜之雪」は、あくまでも広重さん達の創作の一品、東海道の旅のガイド・ビジュアル版55枚の中でいろいろなシーン、夜に夕方、そして早朝、天候も晴れに雨、風、霧、くもり、さらに雪景色にも挑戦しています。
実は、版元・保永堂の竹内孫八さんのお父さんが新潟の「蒲原村」のご出身で、雪国のシーンを入れたとか。広重さんいろいろと気も使う優しい絵師だったのでしょうか、そんな噂の真相も、この美しい雪に隠されています。

2022.08掲載

『東海道五十三次 蒲原 夜之雪』 歌川広重
第九回 読み解き浮世絵コード
~東海道・旅の宿~

東海道五十三次に描かれた「旅籠(はたご)」です。いまの旅館の店先、旅人の到着風景、街道でのワンシーンです。現在の愛知県豊川市あたり、静岡県浜松市の浜名湖を西に越えた愛知県側。東海道、江戸から京都まではおよそ500キロメートル、その「53」あるの宿場の中でも、宿場間の距離がもっとも短いのが、この御油宿と西隣の赤阪宿です。
品川宿場から数えてこの御油宿が35番目、次の赤阪宿が36番目、その間の距離、わずか半里もない1.7キロメートルほど。
当時歩きの旅人達この宿を通り過ぎ、ちょいと足を延ばせば、すぐとなり宿、赤坂宿です。
そしてタイトル、「御油(ごゆ)・旅人留女(たびびととめおんな)」、街道の旅人の方々をお留する「留女」さまです。街道の真ん中でかなり強引な客引きが始まっています。

この御油宿の街道の真ん中、旅のお二人、西に京に向かってのぼり旅、次の36番赤坂宿へ、ちょいと足延ばそうかとしたところへ、この御油宿の旅籠のおねえさん、「たびびととめおんな」のおねえさん、夕暮近くの大切なお客さまをお留する、隣の赤坂宿なんかに行かせるものか、必死の客引き、色は白いが力も強い「どぅりゃ~」。「はい、首しまってま~す、分かりましたから、御油に泊まりま~す」です。

当時は当然携帯電話もなければ、パソコンでの予約もありません。こちらの店先のご仁は、飛び込みでしょうか、それとも事前に手紙で予定を知らせていたのでしょうか。落ち着いたご到来です、髷(まげ)も「いなせ」にカッコ良く、旅の竹杖を立てかけて、わらじも解いて、脚絆(きゃはん)をゆるめながら、旅館のおばあさんが持ってきてくれた、ウェルカム「すすぎ盥(たらい)」を使う姿も粋にきまって、どこかの帰り旅でしょうか、何気に余裕です、羽織った、藍の合羽も「ようすの良いおじさま」、スマートです。

さて、こちらの旅籠の壁に整然とお品書きのような「木札」が並んでいます。
この東海道五十三次シリーズは、1833年に小さな版元、保永堂(竹内孫八)と大手の僊鶴堂(鶴屋喜右衛門)の共同で始めた浮世絵版画出版です。だんだん人気が出て、保永堂が一社で続けた大当たりのシリーズです。当時37歳の広重さんも、この御油、35番目まで描き進んだら一安心。ここらでちょいとお世話になっているスタッフ孝行とばかり「保永堂版東海道五拾三次広重組」のスタッフのご紹介とばかりにこの一枚。

さていちばん右端、文字の左半分しか見えませんが「三十五番目」と読め、つぎが「東海道の絵画」。真ん中に「彫工治郎兵エ」彫師の親方・治郎兵衛さん、そして摺師は「平兵衛」さん。左端の「一立斎図」とは広重さんの図となり、見事にスタッフ名のご披露。広重組、浮世絵版画チームの個人のお名前、今なら映画がテレビドラマの最後のスタッフロールと言ったところです。

そしてこの憂いをふくんで肘なんかついて街道を見つめる美しいおねえさんの背後に一段と大きな白い丸窓に、これでもかと版元、プロデューサーの「竹之内版」が、しっかりと描かれています。広重さんのちょいとした遊び心と感謝のしるしです。   

2022.09掲載

『東海道五十三次 赤阪 旅舎招婦ノ図』 歌川広重
第十回 読み解き浮世絵コード
~東海道・旅籠の激戦区~

東海道五十三次の中でも特に厳しい、旅籠(はたご)の激戦区、宿場間の距離がもっとも短い赤坂宿と御油宿、ちょいと半里(2キロ)ほども足を延ばせば、お隣の宿場。日本橋から36番目の宿場、今の愛知県・豊川市あたり「赤坂宿」です。その旅館の「招婦ノ図(しょうふのず)」、接客係の方々を描いた図と言う事になります。

赤阪宿場の方々、隣の「御油」に負けないような集客を考えた、お客様に先ず泊まって頂く、そして又来て頂くには「この赤坂宿の魅力・特徴は、その強みをなんとする」、その答えが「ホテルのサービス」、色々と考えました、そのお宿を描いた浮世絵です。
この赤坂の売りは、暖かい南国・静岡、現在ならばリゾート風、障子も開け放ち、その庭には見事な蘇鉄、りっぱな石灯籠、さらに接客はサービス満点の親切で美しいスタッフの皆さま。

その庭の立派な蘇鉄、見事な「ソテツ」です、温暖な地域でのみ自生する南国の植物、寿命が長く大きく育ち、この蘇鉄も、庭の灯篭をはるかに超え、軒さえも超えて、ゆうに4mを超えの名物蘇鉄です。
余談ですが「蘇鉄」は、樹が弱った時に、釘を打ち込んだり、鉄くずを株元に埋めたりすると元気によみがえる木と言われ、鉄で蘇生する木、だから「蘇鉄」との事です。

そして旅籠では、料理がお部屋まで運ばれてきました。しかし困ったお客です、煙管をくわえて、手甲・脚絆も脱ぎっぱなし、肘までついて寝そべって、見事なラフ・スタイル、旅館の狙いのリラックスその物です。また手前の濡れ縁では、早めのひとっ風呂浴びて、手拭いを肩にかけていい気分のお連れさん、按摩さんまで呼んだのでしょうか、こちらもリゾートの醍醐味楽しんでおいてです。
この時代、旅の皆さま歩きです。東海道五十三次、日本橋から京都まで約500キロをなんと平均14~15日で行かれたとか、すると毎日約33キロ、一日中歩きづめでした。
朝は出来るだけ早くまだ暗いうちの出発、到着は明るい内、日が暮れる前に宿に入り、毎日、10時間以上たっぷり歩いたと言われています。お天道さまに合わせたスケジュール、見事に熟睡の日々だったと言われています。

また右手の部屋こちらは、畳まれた布団が積みあがっています、布団部屋です。上品な竹の図柄の屏風もたたまれて、蘇鉄の葉のかげに着物掛けがみえ、ろうそくが灯って、風に吹かれています。
そして、この浮世絵の主人公のきれいなお姉さん、営業準備中です、それぞれの鏡とにらめっこ、いつもより頑張っておいでです。

さて 二階建の立派な旅籠です、そのお二階から降りるお客さんの足、その左側襖の手前に手拭が干されています。その手ぬぐいのデザインは、ありました「ヒロ模様」、広重さんのお名前の「ヒ」と「ロ」を組み合わせた広重さんのトレードマークです。

お料理を運んでいるおねえさんの背後には、行灯二張、二つ並んであんどん部屋、手あぶり火鉢が格納されて、火気厳禁、火の用心。
行灯の手前には、提灯の半分が描かれ、文字も半分「御用」が読み取れます。
公用の、公儀の、おかみの御状箱を運ぶ「継飛脚」さんでもお泊りなんでしょうか。   

そして、お部屋の襖やたたまれた屏風に何気なく美しい竹や笹のデザイン図が描かれています、東海道五十三次シリーズの出版元、版元の保永堂の竹内孫八さんのお名前「竹」にちなんだ、広重さんの小さな優しい気遣いでした。

2022.10掲載

『東海道五十三次 箱根 湖水図』 歌川広重
第十一回 読み解き浮世絵コード
~天下の険~

東海道五十三次シリーズの中でも特に人気の「箱根 湖水図」です。日本橋から旅立って、11番目の宿場、相模と伊豆の国の境とされ、特にけわしい「天下の険」の箱根、その急な山地と芦ノ湖の湖水を俯瞰して描いた箱根宿です。ただ、この浮世絵、絵師・広重さんが、箱根のどの地点から描いたのか、またこんな形の山あるのと言われていた不思議な一点です。

よくよく見ると、正面の山かげに小さな社、「箱根神社」が描かれており、現在ならばあの箱根の観光スポット芦ノ湖に建つ朱色の鳥居、平和の鳥居があるあたりを正面に見ている事になります。
毎年お正月2日の「箱根駅伝」、東京・大手町をスタートして107.5キロ、学生たちが襷をつないだ最後の山登り、往路のフィニィシュ地点、さらに翌3日の午前8時に前日のトップランナーが走り出す復路のスタート地点辺りを、浮世絵で描いていることになり、さらにこの絵の左手外のすぐのところに箱根の関所がある辺りとなります。

そしてこの急峻な東海道・箱根の急坂は、鉄道開業の明治の頃、蒸気機関車の力では坂を登りさらに越えられないと言う事で、御殿場回りの国鉄・御殿場線となり、さらに後には難工事の末、天下の丹奈トンネルを開通させて、ようやく海岸側で結び今に続くJR東海道線となりました。さすが天下の険の箱根です。

そして絵師・広重さん、この今ではロープウェイの架かる1536mの駒ヶ岳を正面にどっかりとさらに急峻にそびえさせ、その山肌をいろいろな色と形のモザイク模様で表現しました。32 km離れた富士山をさらりと小さく添えて、箱根のお山を東海道一人気浮世絵に演出して描かれました。

この箱根は、ふるく源頼朝さんや北条一族、さらに徳川家康さんが好み、この江戸時代には箱根七湯、今では箱根二十湯と言われ、様々な泉質を持つ温泉のデパートとして人気があり、三代将軍家光さんや五代綱吉さんの頃には、ここからお江戸のお城まで温泉を運ぶ「献上湯」もあったとか。太古の箱根火山の名残のカルデラ湖としての芦ノ湖を見下ろし、山肌に様々な溶岩の塊を描くことによって、美しく不思議な印象の残る箱根となっています。

この箱根宿は幕府の命により、お隣の小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒ずつ移住させて、宿場が作られ、箱根町箱根には、小田原町、三島町という名前が残っています。
その宿場に通じる、見逃しそうな細く描かれた山間の峠道の東海道に、大名の御一行が丸い笠や四角い荷駄の行列として描かれています。東海道一番の難所、けわしい峠道の箱根八里も、ようやく半分、この左手の先の箱根の関所へはもう一息。そしてこの道は、箱根駅伝の復路、輝かしい勝利を目指して、学生たちが時間差で3日の朝一番に、芦ノ湖のスタート地点からいったん標高874mまでの高台まで駆け上る坂道です。