歌舞伎座楽市とは

全国各地の観光・商品・店舗を紹介する「歌舞伎座楽市」を新たに開設します!地方活性化への貢献をめざし、バイヤーが厳選した全国の特産品や銘品を歌舞伎座ならではの視点で紹介。活気溢れる自由で楽しい〝歌舞伎座楽市”を観光PRの拠点として、伝統と感動を提供していきます!ご期待ください!

歌舞伎座浮世絵散歩

牧野健太郎先生ならではの楽しい切り口で、ご一緒に浮世絵の世界を歩きましょう!

『東海道五十三次 赤阪 旅舎招婦ノ図』 歌川広重
第十回 読み解き浮世絵コード
~東海道・旅籠の激戦区~

東海道五十三次の中でも特に厳しい、旅籠(はたご)の激戦区、宿場間の距離がもっとも短い赤坂宿と御油宿、ちょいと半里(2キロ)ほども足を延ばせば、お隣の宿場。日本橋から36番目の宿場、今の愛知県・豊川市あたり「赤坂宿」です。その旅館の「招婦ノ図(しょうふのず)」、接客係の方々を描いた図と言う事になります。

赤阪宿場の方々、隣の「御油」に負けないような集客を考えた、お客様に先ず泊まって頂く、そして又来て頂くには「この赤坂宿の魅力・特徴は、その強みをなんとする」、その答えが「ホテルのサービス」、色々と考えました、そのお宿を描いた浮世絵です。
この赤坂の売りは、暖かい南国・静岡、現在ならばリゾート風、障子も開け放ち、その庭には見事な蘇鉄、りっぱな石灯籠、さらに接客はサービス満点の親切で美しいスタッフの皆さま。

その庭の立派な蘇鉄、見事な「ソテツ」です、温暖な地域でのみ自生する南国の植物、寿命が長く大きく育ち、この蘇鉄も、庭の灯篭をはるかに超え、軒さえも超えて、ゆうに4mを超えの名物蘇鉄です。
余談ですが「蘇鉄」は、樹が弱った時に、釘を打ち込んだり、鉄くずを株元に埋めたりすると元気によみがえる木と言われ、鉄で蘇生する木、だから「蘇鉄」との事です。

そして旅籠では、料理がお部屋まで運ばれてきました。しかし困ったお客です、煙管をくわえて、手甲・脚絆も脱ぎっぱなし、肘までついて寝そべって、見事なラフ・スタイル、旅館の狙いのリラックスその物です。また手前の濡れ縁では、早めのひとっ風呂浴びて、手拭いを肩にかけていい気分のお連れさん、按摩さんまで呼んだのでしょうか、こちらもリゾートの醍醐味楽しんでおいてです。
この時代、旅の皆さま歩きです。東海道五十三次、日本橋から京都まで約500キロをなんと平均14~15日で行かれたとか、すると毎日約33キロ、一日中歩きづめでした。
朝は出来るだけ早くまだ暗いうちの出発、到着は明るい内、日が暮れる前に宿に入り、毎日、10時間以上たっぷり歩いたと言われています。お天道さまに合わせたスケジュール、見事に熟睡の日々だったと言われています。

また右手の部屋こちらは、畳まれた布団が積みあがっています、布団部屋です。上品な竹の図柄の屏風もたたまれて、蘇鉄の葉のかげに着物掛けがみえ、ろうそくが灯って、風に吹かれています。
そして、この浮世絵の主人公のきれいなお姉さん、営業準備中です、それぞれの鏡とにらめっこ、いつもより頑張っておいでです。

さて 二階建の立派な旅籠です、そのお二階から降りるお客さんの足、その左側襖の手前に手拭が干されています。その手ぬぐいのデザインは、ありました「ヒロ模様」、広重さんのお名前の「ヒ」と「ロ」を組み合わせた広重さんのトレードマークです。

お料理を運んでいるおねえさんの背後には、行灯二張、二つ並んであんどん部屋、手あぶり火鉢が格納されて、火気厳禁、火の用心。
行灯の手前には、提灯の半分が描かれ、文字も半分「御用」が読み取れます。
公用の、公儀の、おかみの御状箱を運ぶ「継飛脚」さんでもお泊りなんでしょうか。   

そして、お部屋の襖やたたまれた屏風に何気なく美しい竹や笹のデザイン図が描かれています、東海道五十三次シリーズの出版元、版元の保永堂の竹内孫八さんのお名前「竹」にちなんだ、広重さんの小さな優しい気遣いでした。

観光しませう!

神奈川県 横浜
六月大歌舞伎第三部『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の舞台、横浜を訪れました。

岩亀楼(がんきろう)の石灯籠

黒船来航をきっかけに歴史の表舞台となった横浜。1859年の開港にともない、横浜公園一帯が埋め立てられ、港崎(みよざき)町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えました。写真下段右の石灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字(写真下段右)から、岩亀楼にちなむものであることがわかります。岩亀楼は、はじめ港崎町に建てられ、慶應2年の大火で類焼、以後二転三転して明治16年(1883年)永楽町に移り、明治17年に廃業しました。
この石灯籠は明治初年頃のものと思われますが、いつ妙音寺に移されたかは判明していないとの事です。震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとは貴重な文化財のひとつといわれています。

写真
上段:物語の舞台、横浜
下段左:岩亀楼の石灯籠
下段右:岩亀楼の文字

岩亀稲荷(がんきいなり)

物語の引き金となる遊女・亀遊は、幕末に実在したと言われています。さらに、亀遊が身を置く岩亀楼は、港崎遊廓に実在した遊女屋で、随一の勢力を誇った大店だったとの事です。
遊女達が病に倒れた時、静養する寮が岩亀横丁にあり、信仰していたお稲荷様が岩亀楼の寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受け継がれています。よほど気を付けないと見過ごしてしまいそうな間口90センチほどの細い路地の奥に岩亀稲荷が鎮座しています。「露をだにいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさじ」の木札(写真)も掲示されていました。このお稲荷様にお願いするとそのご婦人の病いが治ると言い伝えられています。

幕末の吹き荒れる尊王攘夷の嵐の中、横浜の歴史を陰から支えた遊女たちがいる、そんな思いを胸に、お参りされてみてはいかがでしょうか。

写真
上段:岩亀稲荷 門前
下段左:岩亀稲荷
下段右:木札

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日本中が舞台の歌舞伎。その地に銘品あり!

地芝居・地歌舞伎のまちへ

全国の地芝居・地歌舞伎をご紹介します。

鮭川歌舞伎

《鮭川歌舞伎の歴史》
鮭川歌舞伎の起源は、江戸時代の安永2年まで遡り、約250年の歴史があります。江戸から巡業してきた歌舞伎一座が村人に伝えたのが始まりとされています。
鮭川村には当時、京塚芝居「京旭座」、石名坂芝居「豊石座」、上大渕芝居「大渕座」、川口芝居「川村座」の4つの歌舞伎の一座が存在しました。しかし、時が経つにつれて活気が薄れ、一時村内の歌舞伎が消滅の危機を迎えます。そこで、このまま歌舞伎文化を失う訳にはいかないと有志が立ち上がり、昭和46年に4つの座を統合し、「鮭川歌舞伎保存会」が結成されます。
この保存会結成のニュースが東京の「舞踏千升会」の市川千升氏に伝わり、劇団が使用していた舞台装置や道具類が多数寄贈され、鮭川歌舞伎再興の大きな力となりました。その後、平成18年1月には「山形県指定無形民俗文化財」に指定されました。

《現在の鮭川歌舞伎》
毎年6月には鮭川村中央公民館を会場に定期公演を開催し、500名を超える来場者があります。また、子ども歌舞伎の取り組みなど後継者の育成にも力を入れ、多くの若者が役者として活躍し、今では役者の半数以上が地域の若者が占めています。

《土舞台公演の復活へ》
鮭川歌舞伎保存会結成50年の節目を迎えるにあたり、ひとつのプロジェクトが動き出しています。土舞台公演の復活です。
50年前までは、村内の神社境内にある土で盛られた舞台「土舞台」の上で歌舞伎を演じていました。現在は歴史ある土舞台での上演は行われておりませんが、今年の6月12日(日)に、鮭川歌舞伎保存会を中心に土舞台での復活公演を予定しています。
近年では少なくなった、大自然の中での農村歌舞伎公演を、多くの皆様にご覧いただく予定です。(予約申し込みは終了いたしました)
当日はインターネットでのライブ配信も予定しておりますので、ぜひご覧いただければと思います。
http://youtu.be/u0DwvFu5Nbw

【鮭川歌舞伎土舞台特別公演】
日にち:令和4年6月12日(日)12時開演
場 所:鮭川村京塚地区愛宕神社 土舞台
問合せ:鮭川歌舞伎土舞台特別公演実行委員会(鮭川村役場内)0233-55-2111
※申込は締め切りいたしました
詳細はこちら

木挽町広場は“日本物産展”会場!

木挽町広場の催し物について、詳しくはこちらをご覧ください


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出店要項

問合せ先

牧野健太郎(まきの けんたろう)

公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 評議委員、明治大学・明治大学リバティーアカデミー・NHK文化センター調師。 教育番組・アニメーション番組の制作やイベントなどのプロデューサー。 2003年よりボストン美術館との共同制作、浮世絵デジタル化プロジェクトの日本側責任者。