歌舞伎座楽市とは

全国各地の観光・商品・店舗を紹介する「歌舞伎座楽市」を新たに開設します!地方活性化への貢献をめざし、バイヤーが厳選した全国の特産品や銘品を歌舞伎座ならではの視点で紹介。活気溢れる自由で楽しい〝歌舞伎座楽市”を観光PRの拠点として、伝統と感動を提供していきます!ご期待ください!

歌舞伎座浮世絵散歩

牧野健太郎先生ならではの楽しい切り口で、ご一緒に浮世絵の世界を歩きましょう!

『東海道五十三次 原 朝之富士』 歌川広重
第七回 読み解き浮世絵コード
~枠を超えた富士山~

白い富士山が朝の陽光に、ほんのりピンク色に染まっています。広重さんの描いた東海道五十三次シリーズ55点の中で唯一、富士山全体が描いてある一枚、更には絵の枠を超えてはみ出して描いた「ビックな富士山」の浮世絵です。

この「原」は、現在の静岡県沼津市原あたり、東海道を西に向かって旅を始めて、街道一険しい箱根をようやく越えて伊豆の国・三島宿、そして海岸沿いに駿河の国・沼津宿、そこからゆったりと進んで、日本橋から13番目の原の宿場です。宿場のお名前は、この湿地・浮島ケ原の「原」です。この辺り、南側はすぐに駿河湾の海、右手は裾野から見上げる雄大な富士山、東海道随一の富士山ビューポイントエリアです。

江戸でも大人気の富士山のお姿を、広重さんこのシリーズでは、何故かそのほとんどをひっそりと控えめに小さく、林の上に、また山陰にと七点だけ描かれました。先ず川崎宿・六郷の渡舟越しに、そして平塚宿、箱根宿でも小さく、吉原宿では東海道筋では珍しい左側に見える「左富士」として、由井は、さった峠から駿河湾越しに、最後に一番西の浜名湖の舞阪宿と、この「原」以外は、小さく書き添えた感じで描いています。

そしてこの浮世絵「原」で目立っているのは、この旅する女性二人。

素敵な旅姿、キセルを手に笠をひょいと持ち上げて空身の旅、重たい荷物はすべて従者におまかせ、おじさん道中ざしまで差して頑張っています。

またこのお二人を「仮名手本忠臣蔵・八段目・道行旅路の嫁入」の母と娘と見た立て、大星カ弥の許婚、加古川本蔵の娘・小浪さんとその義母・戸無瀬さまが、京都山科へと向かう姿とするとも言われています。それにしても三人分の荷を両掛(りょうがけ)して、おじさん大丈夫ですか。しかしおじさんの衣装の模様も、しっかり広重さんの「ヒ」と「ロ」の文字で作った素敵な「ヒロ文様」、スマートに着てらっしゃいます。

さてこの立派な富士山、日本の火山の中では、10万年ほど前に出来た、若くて元気な火山です。江戸時代、この浮世絵が描かれる120年ほど前の1707年大きな噴火を起こしています。当時二週間ほど噴火が続き、江戸の町にも灰を降らせました。その宝永大噴火の火口も、左側の富士山の美しい稜線の反対側・東の肩に控えめに小さく描かれています。

さらにその手前、ごつごつとした険しい山並みは、長い歳月風雨で削られ侵食された愛鷹山(あしたかやま)です、この頃は足高の峰とも呼ばれ、古くから馬の放牧の地としても有名でした。

また、この浮島ケ原の湿地に、二羽の鶴が描かれています。江戸時代、日本全国に多くの鶴が北国より飛来し、「鶴は千年」の縁起の良い鳥として大切に保護されていました。しかし、その人気から高価な贈答品、食品としても扱われていました。あの江戸の高級料亭「八百善」でもメニューにあったとか。当時のお料理の本「本朝食鑑」にも、「黒鶴・白鶴・真鶴」とあり、よく見かけたマナヅルやナベヅルの事だったのでしょうか。ただ「丹頂鶴」だけは、肉が硬くて鑑賞用のみだったとも言われています。

さて当時お江戸で富士山と言えば、1931年頃、この東海道五十三次より2年ほど前に売り出された、北斎さんの「富嶽三十六景シリーズ」が大人気でした。
この当時37歳の広重さん、風景絵師の大先輩、37歳年上で74歳の北斎さんの描かれた46点の富士山シリーズに遠慮してか、この版元・保永堂から刊行された東海道五十三次では、ほとんど富士山は控えめ、ただこの「原」だけ大胆にビックに、枠からはみ出してピンクに染めておいでです。 

観光しませう!

神奈川県 横浜
六月大歌舞伎第三部『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の舞台、横浜を訪れました。

岩亀楼(がんきろう)の石灯籠

黒船来航をきっかけに歴史の表舞台となった横浜。1859年の開港にともない、横浜公園一帯が埋め立てられ、港崎(みよざき)町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えました。写真下段右の石灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字(写真下段右)から、岩亀楼にちなむものであることがわかります。岩亀楼は、はじめ港崎町に建てられ、慶應2年の大火で類焼、以後二転三転して明治16年(1883年)永楽町に移り、明治17年に廃業しました。
この石灯籠は明治初年頃のものと思われますが、いつ妙音寺に移されたかは判明していないとの事です。震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとは貴重な文化財のひとつといわれています。

写真
上段:物語の舞台、横浜
下段左:岩亀楼の石灯籠
下段右:岩亀楼の文字

岩亀稲荷(がんきいなり)

物語の引き金となる遊女・亀遊は、幕末に実在したと言われています。さらに、亀遊が身を置く岩亀楼は、港崎遊廓に実在した遊女屋で、随一の勢力を誇った大店だったとの事です。
遊女達が病に倒れた時、静養する寮が岩亀横丁にあり、信仰していたお稲荷様が岩亀楼の寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受け継がれています。よほど気を付けないと見過ごしてしまいそうな間口90センチほどの細い路地の奥に岩亀稲荷が鎮座しています。「露をだにいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさじ」の木札(写真)も掲示されていました。このお稲荷様にお願いするとそのご婦人の病いが治ると言い伝えられています。

幕末の吹き荒れる尊王攘夷の嵐の中、横浜の歴史を陰から支えた遊女たちがいる、そんな思いを胸に、お参りされてみてはいかがでしょうか。

写真
上段:岩亀稲荷 門前
下段左:岩亀稲荷
下段右:木札

バックナンバー

買いたいものはここにある!

日本中が舞台の歌舞伎。その地に銘品あり!

地芝居・地歌舞伎のまちへ

全国の地芝居・地歌舞伎をご紹介します。

鮭川歌舞伎

《鮭川歌舞伎の歴史》
鮭川歌舞伎の起源は、江戸時代の安永2年まで遡り、約250年の歴史があります。江戸から巡業してきた歌舞伎一座が村人に伝えたのが始まりとされています。
鮭川村には当時、京塚芝居「京旭座」、石名坂芝居「豊石座」、上大渕芝居「大渕座」、川口芝居「川村座」の4つの歌舞伎の一座が存在しました。しかし、時が経つにつれて活気が薄れ、一時村内の歌舞伎が消滅の危機を迎えます。そこで、このまま歌舞伎文化を失う訳にはいかないと有志が立ち上がり、昭和46年に4つの座を統合し、「鮭川歌舞伎保存会」が結成されます。
この保存会結成のニュースが東京の「舞踏千升会」の市川千升氏に伝わり、劇団が使用していた舞台装置や道具類が多数寄贈され、鮭川歌舞伎再興の大きな力となりました。その後、平成18年1月には「山形県指定無形民俗文化財」に指定されました。

《現在の鮭川歌舞伎》
毎年6月には鮭川村中央公民館を会場に定期公演を開催し、500名を超える来場者があります。また、子ども歌舞伎の取り組みなど後継者の育成にも力を入れ、多くの若者が役者として活躍し、今では役者の半数以上が地域の若者が占めています。

《土舞台公演の復活へ》
鮭川歌舞伎保存会結成50年の節目を迎えるにあたり、ひとつのプロジェクトが動き出しています。土舞台公演の復活です。
50年前までは、村内の神社境内にある土で盛られた舞台「土舞台」の上で歌舞伎を演じていました。現在は歴史ある土舞台での上演は行われておりませんが、今年の6月12日(日)に、鮭川歌舞伎保存会を中心に土舞台での復活公演を予定しています。
近年では少なくなった、大自然の中での農村歌舞伎公演を、多くの皆様にご覧いただく予定です。(予約申し込みは終了いたしました)
当日はインターネットでのライブ配信も予定しておりますので、ぜひご覧いただければと思います。
http://youtu.be/u0DwvFu5Nbw

【鮭川歌舞伎土舞台特別公演】
日にち:令和4年6月12日(日)12時開演
場 所:鮭川村京塚地区愛宕神社 土舞台
問合せ:鮭川歌舞伎土舞台特別公演実行委員会(鮭川村役場内)0233-55-2111
※申込は締め切りいたしました
詳細はこちら

木挽町広場は“日本物産展”会場!

木挽町広場の催し物について、詳しくはこちらをご覧ください


全国からサイト掲載・出店を募集しています。

出店要項

問合せ先

牧野健太郎(まきの けんたろう)

公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 評議委員、明治大学・明治大学リバティーアカデミー・NHK文化センター調師。 教育番組・アニメーション番組の制作やイベントなどのプロデューサー。 2003年よりボストン美術館との共同制作、浮世絵デジタル化プロジェクトの日本側責任者。